【インド10日目】オレンジ色をまとった、ババの生態と撮影

2018年7月11日(水)

※備忘録としての日記をベースにしているため、不必要な文章も多いかと思いますがご了承ください!

☆旅のルート☆

デリー→リシケシ→デリー→

→カジュラホ→バラナシ



バラナシ宿泊初日からおなかの調子が悪い僕を見かねて、お世話になっている【ルドラゲストハウス】の日本人オーナーあきこさんがなんとおかゆを作ってくださった。

このゲストハウスには僕の他になんとあと2人も体調不良者がいる(笑)

世界一周中という金髪の女の子と、関西出身のヒップホッパーだ。

1階のシェアスペースで丸美屋ののりたまをかけたおかゆを食べて、僕は1杯おかわりした。あきこさんには感謝してもしきれない。

 

同部屋の中国人のCくんと、14時30分に約束をして写真撮影に出かけた。Cくんはプロカメラマンではないけど写真愛好家で腕がかなり良く、Canonの5Dを愛用してる。レンズも小さなモノから、旅行に不便な大きなモノまでをインドに持ってきてる。旅の目的は人それぞれだ。

僕たちはまずカーシー・ヴィシュヴァナート寺院(通称:黄金寺院/Golden Temple)をまずは目指すことにした。ここはヒンドゥー教のシヴァ神を祀る寺院で、ヒンドゥー教徒ではない日本人一人でも、境内さらには中枢の最も神聖な箇所まで立ち入ることが許される。

途中、前日も行ったシリカフェでカレーとナンで腹ごしらえをしてから向かった。

境内にはパスポートと財布のみ持ち込みが許されて、その他は全てロッカーに入れることをセキュリティーに指示された。Cくんは命よりも大事らしいカメラをインド人に預けることを嫌い、念のために交代に入ろうと僕に提案してきた(笑)

そして僕は持っている荷物を全てCくんに預け、ボディーチェック受けてから先に中に入った。入ってすぐ左手の花屋で供物(20ルピー)を買い、花屋にサンダルを預けた。だいたいどこのヒンドゥー教寺院も裸足になる必要がある。

参拝ルートは少し分かりづらく、厳かというよりも太陽の光が差し込んで神聖な雰囲気を感じた。寺院の中枢部には御神体があり、ヒンドゥー教徒がちょうどそうするように、供物の花輪を見様見真似で御神体にかけてから、花びらを撒いた。そしてそこに座っている高僧が、僕の額に灰色の泥を塗ってくれた。

Cくんに参拝バトンタッチをしようとすると、Cくんはパスポートを持参していなくて、セキュリティーにNGと食らってしまう。顔写真まで見られなかったから僕の使う?と親切心からズル賢い提案をしたけど、Cくんは時間があるのでまた明日以降来るよと言った。

 

それから僕たちはまた写真を撮りながら街を歩いた。

バラナシらしくない公園が路地裏にあって、かわいい子供達が交代でブランコをして遊んでた。

 

ブルーラッシーという人気ラッシー屋でひと息ついて、撮影を続けた。

 

路地裏のトンネルのようになっているところに、いかにも雰囲気のある2人のババ(サドゥー)が座ってた。

サドゥーとは、サンスクリット語、もしくはパーリ語で、ヒンドゥー教におけるヨーガの実践者や放浪する修行者の総称。日本語では「行者」「苦行僧」などの訳語があてられてきた。現在、インド全域とネパールに、400万人から500万人のサドゥーがいるという。

サドゥーはあらゆる物質的・世俗的所有を放棄し、肉体に様々な苦行を課すことや、瞑想によりヒンドゥー教における第四かつ最終的な解脱を得ることを人生の目標としている。服を着る場合は、俗世を放棄したことを示す枯葉色の衣服を身につけて数珠を首に巻く。「ナーガ」と呼ばれるサドゥーは衣服さえ放棄し、ふんどし一枚きりか、あるいは全裸で生活し、髪を剪らず髭も剃らず、聖なる灰を体に塗っている。サドゥーの名前は10種類しかない。サドゥーは入門時に俗名を捨て、10種の名前のうち一つを与えられて以後それを名乗る。

(wikipediaより引用)

 

サドゥーは親しみを込めてババと呼ばれ、特にここバラナシはヒンドゥー教の聖地なので、至るところでその姿を見ることが出来る。

Cくんは、インドの旅で100枚のババ写真を集め写真集にしたいと話す。

おもしろいことに彼らは10ルピーくらい渡すと、喜んで写真撮影に臨んでくれる(笑)
※50ルピーくらい請求してくる強気のババもいれば、そもそも写真撮影には応じてくれないババもいるのでご注意を!

僕も何人かの写真を撮らせてもらった。

 

今はどうなっているのか分からないけど、かつてインドにおもしろいババがいた。彼は通称、Lotan Baba/Rolling Saint(転がる聖人)と呼ばれ、足を使わず地面をゴロゴロ転がりながら平和を願うという、常人には理解し難い苦行をしていた(笑)

こちらの動画をどうぞ↓

おなかが空いたら草を食べ、時には片足で立ち続けるというその苦行スタイルはかなりストイックで、9,846マイル(約15,842km)転がった人間としてギネス記録を持っている(笑)クレージーすぎる。。。

 

火葬場のあるマニカルニカー・ガートを通り、宿に戻った。

 

この時期の【ルドラゲストハウス】では、夜な夜な“とあるゲーム”が行われるのだとオーナーのあきこさんに聞いた。

このカオスなバラナシでどんなパーティーが行われるかというと、、、

 

 

 

 

マンゴーゲームだ。

この時期のインドではマンゴーが路上の至る所に並ぶ。しかも1個なんと10ルピー前後(約16円)と、宮崎県知事も二の句が継げない価格で手に入る(笑)

22時過ぎにマンゴーゲームがスタートすると、慣れた包丁さばきであきこさんがマンゴーをカットしてくれる。ゲームと言っても、ただ種類の違うマンゴーの味を食べ比べるというサルでも分かる優しいルール。

しかも目の肥えたインド人の旦那さんであるサンシャさんの選んだものということで、どれもハズレがない。

山梨県出身で桃やぶどう慣れしている僕もマンゴー慣れはしておらず、4つもいただいてしまい、人生で初めてマンゴーでほっぺたが落ちる体験をした。

つづく⠀

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5 Comments

アバター 俺が誰か?って。 

修行者のことがでてきたので、一言。
中国の禅僧 臨済義玄いわく「赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」、と。
赤い血が流れるこの肉体の中に真人(真我)がいる。真人は息とともに出たり入ったりしている。まだ見たことがない者はちゃんと見てみろ。
こういう馬鹿なことを言うやつがいるから、悟りが自分から1億キロも遠くに離れてしまい、そこに行くためにサドーたちは修行をしている。
真我とは何か? スクリーン自体には色はない。そこに様々な映像が映し出されるが、どんな映像も一瞬で消え去り、いかなる跡形もスクリーンには残らない。真我はこうしたスクリーンである。
毎日、様々な思い、感情、感覚が現れては消えていきますよね。《どこ》に現れて、《どこ》から消えていくのですか? 《そこ》に身体の有りようも写されます。この《どこ》、《そこ》が真我です。いま、こういう思いを抱いていると、ちゃんと気づいている。その気づきが真我です。何がしかの思いと、それに気づいている意識は違いますよね。息と、息に気づいている意識は違いますよね。体と、その体に気づいている意識は違いますよね。体の中に真我が存在しているんじゃなくて、真我が体を存在させているんだよ。体がすでにあって、それに意識が気づくのではなく、意識が気づくから、そこに体があるっていうわけ。常識とは正反対だけど。
上の「赤肉~~」は中国の馬鹿たれの言葉だけど、「我思う、ゆえに我有り」と言った奴はフランスの馬鹿たれです。すなわち、ルネ・デカチン(一般的にはデカルトと言われている)。フランスの馬鹿たれは、私という実体が存在して、その実体=主体である私が考えていると勘違いしてしまった。今でも教壇に立っていたら「考える主体=本当の私である、なんて言っているデカチンは馬鹿丸出し」ってなことを話していたと思います。まずいよ、哲学で飯食っていながら、近代哲学の祖を馬鹿呼ばわりするのは。最後の年は、けっこうこれに近いことを言っていたけど。
ここからは『金剛般若経』です。
スブーティよ、どう思うか? 如来を、端麗な身体を完成しているものとしてみるべきであろうか?
スブーティは答えた。「師よ、そうではありません。如来を、端麗な身体を完成しているものとしてみるべきではありません。それはなぜかというと、師よ、『「端麗な身体を完成している」というのは、実は(端麗な身体を)具えてはいないということなのだ』と、如来が説かれているからです。それだからこそ、<端麗な身体を完成している>と言われるのです。」
「如来は端麗な身体を具えていないから、端麗な身体を完成している」って、明らかに矛盾しています。知り合いの坊さん(大学の先生でもある)は、この矛盾を解くのに、仏教学は大変悩んでいると、言っていました。アホか!
確かに如来は端麗な身体を有しています。しかし、如来は身体ではなく、端麗な身体とその働きに気づいている<気づきの意識>です。だから、如来は端麗な身体を確かに完成してはいるのですが、端麗な身体ではありません。
金剛般若経を言葉と思考で理解しようとすると、矛盾で頭が破裂する。だけど、私のような馬鹿は、言葉で考えない。だって、「真我」って言葉で考えても、ぜんぜん分からないし、そもそも「見よ見よ」って言われても、真我はすべてを「写している側」であって、「真我に写されている客観」ではないから、見えるわけがないだろ。ヴィトゲンシュタインも言ってるじゃん、「目は目を見ない」って。
なにを言いたいかというと、インドの聖者ラマナ・マハルシが言うように「誰でも悟っている」。だから、修行に行く必要はない。遊びに行くのはいいけど。
大学辞めてから、こういう当たり前のことが分かるようになった。ということは、大学で話していたことは、全部ウソだったってことでした。
しかしながら、この「ウソ」について、これから真剣に考えようと思っています。だって、貧富の差とか、能力の差って、ウソから始まっているんだから。それだけじゃなく、金持ちが金をガンガン稼いでいるのも、ウソを信じているから。貧乏人が貧乏でしかないのもウソを信じてしまったがゆえなんです。

ヨークシャーは耳立ちで、ランドレースは耳たれです。猫にもこういう違いがありますよね。普通は、猫は耳立ちですが、スコティッシュ(というと思った)は耳たれです。

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アバター 俺が誰か?って。 

かなり分かりにくいことを書いてしまったのかもしれません。
(これほど簡単なことが難しいことになっていること自体がおかしい)。

南泉の寺に、趙州が悟りを求めにやってきて、毎日毎日、趙州は朝から晩まで座禅ばっかりやっているんです。
座禅をやっている趙州の前に、南泉禅師がやってきて、瓦を磨き始めたのです。
趙州「和尚様、何をやっていらっしゃるんですか?」
南泉「いやな、この瓦を磨いて玉(ぎょく)にしようと思っているんじゃ」
趙州「和尚様、そんな瓦を磨いても、玉になんかなりませんよ!!!!」

そりゃそうだ! 瓦を磨いても、宝石になんかなるわけがない。
だけど、趙州は心を磨けば、悟った心になると思ったわけね。

でも、趙州はあるときに気づいた。
そして、「なんだこんなことだったのか」と言って、
師の南泉を投げ飛ばしたそうです。

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