エベレストベースキャンプ紀行⑨

この記事では2020年3月1日から9日間かけて行ってきたEBC(エベレストベースキャンプ)トレッキングの様子を書いています。

 




2020年3月9日(月)

7時過ぎに起きてカーテンを開けると、雲一つない真っ青な空が周囲の山々によって切り取られていました。天候はトレッキングのモチベーションや体力に大きく影響するので、ひとまず胸をなでおろします。

僕がお世話になった「Internationla Foot Rest」という宿はこの時間、まだ東にある山の陰になっていたので気温は低いままです。太陽というのは偉大な存在だとつくづく感じます。靴を履いて宿のテラスに出てみると、カラフルなタルチョや家々の向こうに雪を被った真っ白な山が聳え立っていました。

右膝の痛みは今日もまだ取れていませんが、トレッキング初日に飛行場のあるルクラからここナムチェまでの道のりを歩いて来られたことを考えると、帰りは下りだし別に平気だろうと高を括っていました。もう標高による死の危険もなさそうだし、ゆっくり休憩しながらマイペースに歩いていこう、と。

今回のエベレスト街道トレッキングで自分自身と向き合う中で、「忙しくし過ぎないようにする」「自分にとって心地よいと感じる瞬間を逃さないようにする」と何度も考えていました。誰かに何かを急かされたり制限されたりして生きるのって、気持ち良いことじゃないからね。

朝食のオムレツを食べ終わりテラスで紅茶を飲みながら、これからベースキャンプやゴーキョを目指すという世界中の登山者たちと話をして過ごしました。

時計を見ると9時を回っていて、太陽も上がってきたのでさすがに下山を開始することにします。荷物をまとめ宿を後にして、山の斜面にへばり付いたようなナムチェバザールの景色を振り返った時、「次はいつここに来られるんだろう」と考えると胸がいっぱいになりました。

また絶対来るぜ、ナムチェ!




9日前に通った道をひたすら引き返していきますが、向いている方向が違うからか登山時と下山時の心の余裕の違いからか、まるで初めての場所を歩いているような新鮮な気分です。

山岳地域では登山者よりも荷運びのロバやポーターが優先ということもあり、ところどころで停滞を余儀なくされてなかなか思うように前に進みません。

ただでさえ雨や雪でぬかるんでいて状態が悪い道を一日に何百頭という数のロバが歩くので、もはやどこを踏んで前に進めばいいのか分からないような箇所も多いです。ちなみにグチャグチャしているのは土だけでなくロバの糞尿も混ざっています・・・草食動物なのでニオイは特に気になりませんが、靴がベチャベチャになるのだけはちょっと勘弁です・・・!

ただそんな荷運びのロバたちの恩恵を受けているのも僕たち人間なので、感謝の気持ちを忘れちゃいけませんね。足の踏み場を考えながら前へ前へと歩みを進めていきます。

そして12時過ぎ、ようやく懐かしのモンジョという村まで下ってきました。

最終日の昼食は初日に立ち寄ったおばちゃんのお店でダルバートと決めてはいたものの、右膝の痛みのせいで想像よりも下山に苦労してしまい、モンジョの手前で心が折れかけていたのも事実です。何はともあれここまで来れて良かったです。

おばちゃんも僕のことを覚えていてくれて、紅茶や地域で採れたミカンを振る舞ってくれました。初日と同じロケーションで、美しい山を見ながら飲む一杯はもう「最高」の一言に尽きます。

音楽が欲しくなって、イヤホンをします。雑音のない山ではどんな音楽もダイレクトに脳や体に響いてくる感じがして好きです。

 



しばらくしてトイレに行きたくなったのでお店の中に入りました。厨房を覗き込むと、圧力鍋でご飯を炊いてフライパンをジュージュー言わせておばちゃんがダルバートを作ってくれていました。標高の高い山岳地域では沸点が下がることもあり、圧力鍋が大活躍します。

空腹は最高のスパイスといいますが、美味しそうな音にさらにおなかが空いてきます。

トイレの場所を聞くと、料理の手を止めて外の簡易なつくりの小屋に案内してくれました。

これがトイレです。

僕はインドやネパールのトイレが、エコで大好きです。汚い話かもしれませんがの場合もトイレットペーパーは基本的に使わずに、水と手で処理するのが一般的です。標高がさらに高いところでは水が凍って使い物にならずお湯をもらったり、仕方なくティッシュを使ったりすることもありますが(笑)

旅をしているとそんな不便さの中に、日本にいれば当たり前で意識すらしなかったことを考える瞬間がたくさんあります。日本に帰ってきてしばらくは「トイレットペーパーなんて別に無くてもいいのになぁ」と思う期間が続きます。とは言ってもすぐに日本の生活に慣れて、そんなことは考えなくなっていきます。

店内に戻りしばらくすると、僕より少し年上と思われるバックパックを背負った男性が入ってきて「ここで食事ができますか?」と聞いてきました。この先しばらくレストランがなかったことを伝えてこのお店のダルバートをおすすめすると、男性は荷物を下ろして僕と同じダルバートを注文しました。男性は韓国からの登山者で、これからベースキャンプに向かうとのことでした。

そしてついに、お待ちかねのダルバートが運ばれてきました。今回はチキンも付けてみました。チキン以外はお替わりができます。

韓国人男性も美味しいと言って喜んでいました。おばちゃんがどんどんお替わりのダルスープやカレーを運んできてくれるので、2人でおなか一杯になるまで食べ続けました。

食べ終わると時刻は14時近くになっていて、結果として2時間弱も滞在していた自分に驚きました。が、そのくらい心地よい場所でした。

僕は男性にベースキャンプまで気を付けて楽しんで!と告げ、おばちゃんにまたいつか来るからと伝え、再び下山を開始しました。




今日中に飛行場のあるルクラまで歩き切らないと、明日の朝6:55発の飛行機に間に合わない可能性が出てきます。正確に言えば、間に合うかもしれませんが日の出前の寒くて真っ暗な道を足を引きずって歩きたくはないので、今日中に全行程を終わらせたいという考えです。

もう寄り道はしない、と心に決めました。

決して寄り道をしているわけではないのに、右膝の痛みのせいで無駄に何度も立ち止まるハメになります。弱っている自分を見て興奮した牛が後ろから突進しようとしてきた時には、本気で死の危険を感じました。辺りは次第に薄暗くなってきて、粉雪が舞い寒さも増してきました。確かに今日はレミオロメンの日ではありますが、僕にはこの時ロマンチックな気持ちは1ミリもなく、ただただ辛く心細い時間が続きます。

「ちょっと待てよ、初日にこんな道通ったか?」と自問して、念のために地図を確かめてみます。確かに同じ道を引き返しているようなのですが、自分の記憶や距離感が曖昧になってきました。

右脚を引きずって歩く僕の姿は、とても惨めだったと思います。まあ日が落ちて暗くなったとしても歩き切れればいいか、という心の余裕はありました。

そんな時(パクディンとルクラの間くらいだったと思います)、僕の右側を話しながら通り過ぎていった2人の女性が、20メートルくらい先で立ち止まってこちらを見ていました。

※ここからはほとんど写真がありません。

2人に追いつくと、1人が英語で「大丈夫ですか?荷物を持ちますよ」と親切にも声を掛けてくれました。

僕は「ありがとう、だけど最後まで自分の力で歩き切りたいから大丈夫です」と返しました。バックパックは旅を共にする相棒のような存在で、まだ少し余力はありました。2人は「それでも荷物だけは持ちますから」「あなたに手を貸さないと私たちの心が痛むんですよ」とまで言ってくれます。数分前まで心細かった僕の前に、なんとも女神のような2人が現れたものです。

話を聞くと2人は飛行場のあるルクラに住む姉妹とのことでした。

結局僕は自分の荷物を背負ったまま、流れで2人と一緒にルクラまで歩いていくことになりました(と言っても僕のスローペースに彼女たちが付き合ってくれたのですが・・)。“付き添ってくれた” と言った方が正しいかもしれません。

姉はヤンジ、妹はニマと名乗り、僕も簡単に自己紹介をしました。すると2人は少し驚いたような顔をしました。

というのも、偶然にも妹のニマは1ヶ月前に名古屋で働く地元の友人に会いに行ってきたそうで、今はその時に買ってきた日本土産のTシャツとウィスキーを2つ先の村に住む叔父さんの元に届けに行った帰りだというのです。彼女にとっては今回の日本が初めての海外旅行で、ルクラにある観光関係のオフィスで2年間働いて貯めたお金のほとんどをこの旅行に費やしたと言います。

「日本とネパールの物価はそれくらい違うんですよ」そう笑って話す彼女の幸せそうな顔を見て、僕はすこし複雑な気持ちになりました。日本でこんなに幸せそうな顔をしている人が果たしてどのくらいいるのでしょうか。幸せそうというか、心の余裕があるというか。山岳地域で暮らす彼女に日本はどう映ったんだろう。

「日本はどうでしたか?」と聞くと、

「日本人はBusy(多忙)で、ネパール人はEasy(気楽)ですね」

だからネパールは貧しくて、日本はお金持ちなんでしょうね、と続けて笑いながら言いました。日本人は親切な国民で、発展している日本にとても驚いたとも言いました。

この世界は何かを得ることで何かを失い、何かを失うことで何かを得るようにできているのかもしれないと僕は感じました。

40分くらい僕ら3人は一緒に歩いたでしょうか。目に入る建物や山岳民族シェルパの生活の話を聞きながら歩いていると、街道の景色は全く違うものに映りました。こういうローカルを感じたくて僕は旅をしているんだと、いつの間にか忘れかけていた大事な感覚が蘇ります。

「この坂を上がり切ったらルクラですよ」姉のヤンジがそう言います。

僕は最後の力を振り絞って坂を上り切りました。そしてその先に広がったルクラの光景に驚愕しました。

9日前の早朝にトレッキングを開始した時は静かで殺風景な町にしか思えませんでしたが、それは早朝だったからであって、今自分が立っているメインストリートは夜でも明るくて、たくさんの人の往来があります。エベレスト街道を9日間歩いてきて、最大の都会とも言える場所に僕はやって来ました。

「今夜の宿はどこですか?」と2人に聞かれ、「Wi-Fiのある宿を適当に探して泊まります」と言うと、「汚くても良ければ、私たちの家に泊まっていってください」と願っても無いことを提案してくれました。

最上級に嬉しい気持ちを抑えつつも最初は遠慮していましたが、最終的に僕はこの親切心に甘えさせていただくことにしました。

明るいメインストリートをしばらく進んでどこかの角を右に折れて、薄暗い路地を奥へ奥へと進む2人に僕は必死についていきます。2人にとっては生まれ育った地元なので、すれ違う人すれ違う人がみんな顔なじみといった様子でした。僕もこんなに狭いコミュニティーに住めたらと思いました。僕の地元では、近所の人と車ですれ違った時に頭を下げ合うだけの付き合いになってしまいました。昔は違ったでしょうが、確かに今の日本は忙しすぎるのかもしれません。時々2人が現地の言葉で「今夜この日本人が家に泊まっていくんだよ~」といって僕のことを紹介してくれます。僕が日本人だと分かると笑顔で「コンニチワ〜」と言ってくる人もいました。

途中で姉のヤンジが「マトン(羊肉)は食べられますか?」と僕に聞き、食べられると伝えると来た道を一人戻っていきました。ニマに聞くと、今夜はヤンジがマトンのカレーをご馳走してくれるんだってと教えてくれました・・・( *´艸`)あはは♪

しばらく歩くと、メインストリートの賑わいがもう届かない町はずれの家にたどり着きました。山岳地域らしい手づくりの温かみのある素敵な家です。

中に案内されて「荷物を置いて、座ってゆっくりしてください」とニマに言われ、温かいマンゴージュースとクッキーを出してくれました。

すると突然全ての電気が消え、視界が真っ暗になりました。一瞬、時間が止まったのかと思いました。

「ごめんなさい。この辺りでは電気が安定しないからよく停電するんです」そう言ってニマが木の床を歩く足音だけが響きます。僕は今自分がどこにいるのかいよいよ分からなくなり、今日の出来事全てが夢だったのではないかと本気で錯覚しました。

慣れた足取りでニマが家の隅にある祭壇に歩いていき、そこにあったキャンドルに火を灯していきます。

「ネパールではフルムーン(満月)のホーリー(春祭り)にも、こうやってキャンドルに火を点けてお祝いするんですよ」と言いました。

その時、突然薄暗い家に知らない女性と小さな子供が入ってきました。「ナマステ」と挨拶をし合うと、女性は2人の友人で、小さな子供は姉ヤンジの娘でした。どうやらヤンジが不在にしている間、この友人の女性がこの子の面倒を見てくれていたようです。

ニマが「もし脚がまだ動くなら、夕飯までもう少し時間があるからルクラの町を案内しましょうか?」と提案してくれて、正直なところ脚は限界に近かったのですが、せっかくの機会なのでお願いすることにしました。もしも脚が痛くなければ・・・と右膝を恨みましたが、よくよく考えたらこの右膝の “おかげ” でたぶん僕は今ここにいるのだろうと思い、その考えをすぐに撤回しました。

ニマと姪っ子のスミナと3人で外に出ると、辺りは完全に夜になっていました。

時々近所のみんなで集まってダンスしたりして遊ぶという建物、週末に生鮮食品の市が立つという場所を通りすぎて、先のメインストリートまでやって来ました。道の脇の椅子に座ってスマホで映像を観ながらニヤニヤしている女性がいました。何年か前にネパール人男性と結婚してルクラに移住した日本人女性だそうです。

僕たちはルクラ空港(テンジン・ヒラリー空港)まで時間をかけて歩いていき、近くの石段を登り上がりました。登り切るとそこにはターラー(Tārā)というヒンドゥー教の神様の巨大な像が立っていました。この神様がルクラの町や人を守っているんだと僕は感じました。

振り返り、石段に3人で腰かけて夜の空港のやさしい灯りを見ながら、かけがえのない9日間に感謝します。

同時に、登山者のためとも思えるこの空港が山岳民族シェルパの生活を大きく変えたんだろうと僕は考えました。ニマに地元に空港があることについてどう思うか尋ねると、予想外の返事が返ってきました。

「悪く言っている人は誰もいませんよ。例えばルクラにこの空港ができるまで、村の人は生活に欠かせない “塩” を手に入れるためだけに、何日も何日も山を歩いて下らなければならなかったんです。空港ができたことで生活の質が遥かに向上しました。それに世界中からの旅行者にもたくさん出会うことができます。」

確かに、変化を嫌う人は世の中にたくさんいますが、その結果として “何を得るか” に焦点を当てることも時には大切なことだと思います。日本人とネパールの山岳民族がこうして英語で会話することは、100年前の世界では不可能でした。

姪っ子スミナのキラキラした目を見ていて、この子の将来が楽しみだなぁと思いました。

家に帰り、姉のヤンジが作ってくれていたマトンカレーをみんなでいただきました。日本で食べたことのあるマトンの臭みに僕は苦手意識がありましたが、ヤンジの煮込んだマトンは一切臭みがなく、口の中でとろけて絶品でした。

トレッキングのクライマックスという最高のシチュエーションで食べる絶品のマトンカレー。これ以上のマトンカレーに僕はもうこの先出合えないのではないかとさえ思います。

僕はその夜、ニマの部屋を使わせてもらいました。(もちろん一人で)

寝間着に着替えて電気を消して、あったかい毛布にくるまり目を閉じて、改めて9日間に及ぶ膨大なシーンを頭の中でなるべく細かく回想していると、羊を数える原理でいつの間にか眠りに落ちていました。




2020年3月10日(火) 山を去る時

6時にセットした目覚ましが鳴り、夢現に自分が今どこにいるのか、ベッドの上で頭の中を整理します。そうだ、昨日は知り合ったネパール人の家に泊まらせてもらって、今日は首都カトマンズに帰る日だ!

適当に荷物を整理して家の外に出てみると、鳥の声が響くのどかなルクラの町にはまだ太陽の光は届いていません。空気が信じられないくらい美味しくて、天気も最高です。

しばらくするとヤンジとニマが眠そうな顔で起きてきて、温かいチャイを出してくれました。姪っ子のスミナはもちろんまだ夢の中です。

首都カトマンズに戻る飛行機のルクラ出発時間は6:55

昨日の夜この家にやってきた親戚のお兄さんに、僕は空港まで送ってもらう話になっていました。

6:30を回りいよいよ僕がソワソワし始めると、ようやくお兄さんがやってきました。「ネパール人は本当にEasyだね〜」と僕は冗談を言おうとしましたが、やっぱり言うのをやめました(笑)

2人に心からお礼を言って、僕たちは空港へと向かいました。まだ残る右脚の痛みが、今は少し愛おしくさえ感じます。

早朝のルクラの町は、10日前に僕がこの地に降り立ったあの時と全く同じように静けさに包まれていました。

徒歩10分で空港に着き、僕は親戚のお兄さんにお礼を言って、握手をして別れました。見上げると山の上の方にやっと太陽の光が届いています。

飛行機はというと、出発時刻の10分前になってもまだ空港に到着していません。

「やっぱりネパール人はEasyだなー。」

そしてこれこそが僕がある意味では見習わなければいけないライフスタイルだ。

空港の待合室でそんなことを一人考えながら、別れ際にヤンジとニマにもらったまだ温かいゆで卵を食べました。

 

【エベレストベースキャンプトレッキング紀行】



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