かごめかごめ
かごのなかのとりは
いついつでやる
よあけのばんに
つるとかめがすべった
うしろのしょうめんだれ
作者:―
前回の記事からの流れで読んでいただくと、よりお楽しみいただけると思います!
「かごめかごめ」といえば、日本人であれば誰もが知っているわらべ歌ですよね。
子どもの頃、輪をつくって歌いながら遊んだという方もたくさんいるのではないでしょうか?
しかしそのメロディーは単調で、どことなく物悲しい雰囲気が漂っているような感じがします。
さらにかごめかごめの歌詞にはすこし理解しづらい点が多いのですが、誰が、何を意図して、日本のどこの地域で作られたのかがはっきりしていません。
ただ、江戸時代のある時を境に、日本全国に広がっていったであろうことだけが分かっているのです。
もしもですが、誰かがこんなことを考えたのだとしたら、あなたは信じますか?
“子どもたちの遊びを利用することで、日本全国にこの歌を広められる”
前回の記事の最後で、「かごめかごめ」の歌詞が徳川埋蔵金のありかを示しているという説をご紹介しましたが、僕は個人的にこの説が一番ロマンがあって好きです。他のものはほとんど縁起が悪いので(笑)
ちなみに前回ご紹介したものは、どれも都市伝説系の話では有名なものです。
さて、もしも本当に「かごめかごめ」という童謡が徳川家の財宝のありかを示しているのだとしたら、徳川家に比較的近い人間によってこの歌は広められた可能性がありますよね。
そこでキーマンになるのが、服部半蔵(はっとりはんぞう)という人物です。
聞いたことありますよね、服部半蔵。
漫画「忍者ハットリくん」のアイデアの元にもなっている、伊賀国(現:三重県)出身の忍者です(笑)
忍者だけあって、その生涯は謎に包まれているところが多いのも事実です。
ちなみに服部半蔵というのは一人の人物と思われがちですが、徳川家に代々仕えて活躍した服部家当主の呼び方で、実はこんな風に何人もいるのをご存知でしたでしょうか。
●初代 服部半蔵(半三)保長/正種
●2代目 服部半蔵 正成
●3代目 服部半蔵 正就
●4代目 服部半蔵 正重
●5代目 服部半蔵 正吉
・
・
・
いわゆる「服部半蔵」として親しまれているのは、2代目の正成(まさなり/まさしげ)です。
すこし細かい話をしておくと、正成は父の跡目として服部家の家督を継ぎ徳川家康に仕えて、遠江掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで武功を重ねました。そして16歳の時に三河宇土城を夜襲して戦功を立てたあたりから、
「う~む半蔵、お前若いのになかなかやるではないか!これからも頼むぞ。」
てな感じで、徳川家康に才能を認められ始めます。
服部半蔵には忍者の血が流れているので、徳川家お抱えの“特殊部隊”として、スパイや暗殺を繰り返して功績をあげ続けたとも言えます。
そして一部の歴史家の間では、服部半蔵がいたからこそ徳川家康は天下を取れたとまで言われています。
しかしこれは決して大げさなことではないかもしれません。
ところで、僕たちが都内で使っている地下鉄で、東京メトロ半蔵門線というものがありますね。
この「半蔵」も服部半蔵に由来しているのですが、そもそも「半蔵門」というのは江戸城(現:皇居)西端の門のことです。
ただ近くに服部半蔵の屋敷があったという理由で「半蔵門」という名前が付いたというよりも、代々功績を残してくれる服部家に対して、徳川家が感謝の意を込めて褒美として「半蔵門」という名前を付けてあげたのだと言われています。
徳川家から「半蔵門」という名前をいただくということ自体、当時の人間にとってはこの上ない喜びだったと言えますが、服部半蔵(どの服部半蔵かは分かりません)はもう一つ徳川家にお願いをしてみることにしました。
それは、“日本全国を自由に旅させてほしい”というもの。
この服部半蔵は、歌を詠むことが何よりも好きだったのです。
今となっては日本国内どこでもパスポートなく簡単に旅行ができますが、当時は各所に関所が置かれ、簡単に諸国を旅することはできませんでした。
これまでの服部家の功績を考慮した徳川家は、そんな当時の服部半蔵の願いを聞き入れ、全国の関所を越えられる特別なパスポート(通行手形)と支援金を用意してあげました。
ただし条件として、
「忍者らしく、各地で幕府への謀反の噂などがあった時は、すぐに“ホウレンソウ(報告・連絡・相談)”をするように。」という指示も出しました(笑)
そして服部半蔵は各所に根回しをしたうえで、大手を振って念願の旅に出られることになります。
あ、いけないいけない、名前を隠さなければいけませんね。
服部半蔵が旅をしながら名乗った名前、
それが
松尾芭蕉(まつおばしょう)です。
とても有名な人物なので、一度は聞いたことがありますよね。
古池や 蛙飛びこむ 水の音
(ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)
はあまりにも有名な一句です。
芭蕉は、1644年に伊賀国(現:三重県)に生まれましたが、確かに服部半蔵と同じ故郷だったということが分かっています。
それ以外にも服部半蔵と松尾芭蕉には、同一人物と思わせるような共通点がけっこう多いそうです。
そして俳人だった芭蕉は1689年、46歳の時に弟子の河合曾良(かわい そら)を引き連れて、「おくのほそ道」の長旅に出ました。
正確には、「おくのほそ道」の旅に出たというよりも、旅をして綴った旅行記が「おくのほそ道」だったと言う方が正しいです。
江戸を出発して、東北それから新潟へと歩いて詠んだ句の数々は、本当に名作ばかり!
夏草や 兵どもが 夢の跡
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
岩手県・平泉町
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)
山形県・立石寺(山寺)
五月雨を あつめて早し 最上川
(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)
山形県・大石田町
この時代によくもてはやされていたのは華やかな俳句ばかりだったため、松尾芭蕉の自然の美や日本のわび・さびを詠み込んだ俳句は当時の俳句界に大きな衝撃を与えました!
しかしこの男にもまた、数々の謎が残っているのです(笑)
公益財団法人 芭蕉翁顕彰会さんの公式ホームページから地図をお借りしますが、赤い線を見てみてください。
こちらが江戸時代に松尾芭蕉が「おくのほそ道」で歩いたとされるルート。
約150日間にもわたるの旅の総移動距離は、驚異の2400kmにも及び、記録によると1日の歩行距離がなんと約50kmという日もあったそうです。
「人間五十年」と言って日本人の平均寿命が50歳にも満たなかったとされる江戸時代に、46歳で歩き始めたことさえ驚くべきことですが、まずフルマラソンよりも長い50kmをふつう1日で歩き切れるでしょうか?
しかも今と違って整備もされていない険しい山道も最高レベルに厳重な関所も、スイスイ~っと通過していった痕跡があるんです(笑)
それだけではなく、150日間も旅をし続けるには体力だけではなく、かなりの財力がなければいけないことは誰にでも想像がつきます。
これらのことから考えられるのは、こんなところです。
芭蕉には“強力なパトロン”がいて、基本的に長距離は馬を利用して移動。
難しい関所は特別な通行手形を利用して通過し、忍者だったので険しい山も難なく越えられた。
確かに栃木県大田原市の黒羽芭蕉の館には、こんなブロンズ像があります。
パトロンというのはもちろん徳川家のことで、芭蕉は日本各地を回りながら、幕府への謀反を企んでいる怪しい者がいれば徳川家に報・連・相しました。
でも、曾良は本当にただの弟子だったのかなぁ?(笑)
さてこの記事の本題に戻りましょう。
「かごめかごめ」は、ひょっとしたら松尾芭蕉(もしくは幕府側の人間)によって作られ、芭蕉が各地を旅することで広められたのかもしれません。
大人に意味の分からない歌を聞かせてもおそらく広まりませんが、何も知らない子ども達に「『かごめかごめ』っていう新しい遊びを知ってるかな?」と言ってやり方を教えてあげることで、子どもから子どもへ、集落から集落へとものすごい勢いで伝え広がっていったのです。
それではなぜ、芭蕉は「かごめかごめ」を各地に広めていったのでしょうか?
「徳川家の財力を各地の大名に示し反乱をしても無駄だと思わせるため、各地にヒントをまきながら圧力をかけた」という説がありますが、これはすこし無理がありますよね・・・(笑)
仮に服部半蔵と松尾芭蕉が同一人物で、「かごめかごめ」が本当に徳川埋蔵金のありかを示しているとしましょう!
僕の考えとしてはこうです。
各地を旅して俳句を詠むほど創作活動が好きだった人なので、後世に語られる「宝の地図」を残した。
つまり、ただの遊び。
いつの時代も旅人というのは、そういうもんです(笑)
その方がロマンがあるでしょ~。
最後に「おくのほそ道」の冒頭の一文を見てみます。
月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。
(月日というのは永遠に終わることのない旅人のようなものであって、来ては去り、去ってはまたやってくる年もまた旅人である。)
とても“おく”が深い感じです(笑)
今回も最後までお読みいただきありがとうございました!
前回の記事はコチラ
↓
かごめかごめに隠された秘密(上)
[…] 続きはコチラ ↓ かごめかごめに隠された秘密(下) […]