【連載】「ルーツの旅」第5話

※前回の記事はコチラ「ルーツの旅」第4話です
※最初の記事はコチラ「ルーツの旅」第1話です

 

こちらが我が家の過去帳の冒頭のページです。

3行目にこんな文章が見られます。

寛保二年四月七日 重郎左ヱ門 事
天神前の田地を本清寺え納む

『事』というのは「起こった事、した事」という意味のようです。

つまり、寛保2年の4月7日に、重郎左ヱ門さんが「天神」の前の田地を、本清寺(我が家の菩提寺)に寄進したよー!という書き出しからスタートしています。

残念なことに、この過去帳以前の先祖のデータはお寺で発生した火災によって焼失してしまったとらしいです。

ですので僕が頑張って調べられる依田家の先祖は、寛保二年に生存していた重郎左ヱ門さんまで、ということになります。

1000年くらいまで前まで遡れたら夢があったのに、残念!




気を取り直して、寛保二年っていつだ?江戸時代っぽい感じがするけど。。。

 

調べてみると、寛保二年は“1742年”でした!!

日本はやっぱり江戸時代で、かの8代将軍徳川吉宗の時でした。

 

\\ジャカジャン!//

徳川吉宗というのは、マツケンこと松平健さんの演じた暴れん坊将軍のモデルになった将軍のことです。

このBGMのね。

 

またこの寛保二年(1742年)というのは、Wikipediaで調べると関東地方を中心にものすごい大洪水が起きた年でもあります。

寛保二年江戸洪水(かんぽうにねんえどこうずい)は、1742年(寛保2年)の旧暦7月から8月にかけて日本本州中央部を襲った大水害「寛保の洪水・高潮」で江戸が被った被害である。



なんと265年間続いた江戸時代で最も被害の大きかった洪水とも言われ、東京の下町も大きなダメージを食らいました。

幕府は船をかき集めて川と街路の区別が付かなくなった下町へと派遣して、流されている人や屋根や樹木の上で震える人を救出し、更に被災者に粥や飯を支給した。記録によれば、食料の支給を受けた人数は8月6日で6000人分、被害のピークであった8日には1万人分、水が引いて支給を昼のみに限定した16日でも7000人分を要した。また、被害の少なかった江戸の有力町人の中には独自に炊出しを行ったりした者もいた。幕府は安濃津・備前・長州・肥後などの被害の少なかった西国諸藩10藩に命じて利根川・荒川などの堤防や用水路の復旧に当たらせて事態の収拾を図った。

 

なんだか今の時代の自然災害、被害対応とソックリだなぁ・・・

 

おそらくこうした自然災害への被害対応もあり、寛保年間の幕府持ち出しの費用はバカにならなかったのでしょう。

8代将軍徳川吉宗は、幕府財政の再建のために、老中の水野忠之に命じて大きな財政政策を進めます。

ただそれが幕府内だけではなく庶民にまで倹約を強いたものだったので、この時期の経済や文化の成長はしばらく停滞してしまったようです。

この時代にも、いわゆる“自粛ムード”みたいなのがあったのかな?

また、吉宗は“暴れん坊将軍”だけあってわりとキツい増税政策なんかもしたので、日本各地の農民は困窮し大きな百姓一揆(農民による暴動)が各地で起きたようです。(Wikipedia「享保の改革」より)

 

改めて我が家の過去帳の冒頭の文章を見てみます。



寛保二年四月七日 重郎左ヱ門 事
“天神前の田地を本清寺え納む”

重郎左ヱ門さんが先祖代々の依田家の土地の一部をお寺に寄進したのも、おそらくこうした増税政策の煽りがあったのではないかと僕は考えています。

形だけでも個人所有の土地ではなくお寺所有の土地であるということにしておけば、当時は節税対策になりましたからね。
(今は農地改良の結果、我が家の土地に戻っています)

 

そしてこの天神前の田地に実際に行ってみました。




今はこんな感じです。

柿の木が植えられているこの畑が、過去帳に記載されていたかつての天神前の田地です。

276年前(寛保2年)には田んぼが広がっていたことを考えると、少しロマンがあります。

その後、田んぼは桑畑(カイコを育てるため)になり、戦時中は食糧難のために桑畑の一部を再度田んぼに戻し、最終的に今は柿畑になっているということのようです。

僕の祖父は若かりし頃、この畑の一角に「天神」の跡地と思われる平らな箇所を目にしていたそうですが、今は河川工事の影響でコンクリ―トで完全に埋められています。

しかし、「天神」様は壊されて無くなってしまったのではありませんでした。

(2021年6月23日追記)

戦時中にこの地域に疎開していた画家川崎小虎(かわさきしょうこ:愛称コトラさん)が描いた風景を見ると、戦争当時はこんな風景が広がっていたようです。

 

川崎小虎「麦秋」

 




聞くところによると、かつて「天神」様があったとされる場所から見上げた、この山の中腹にある別の神社の境内に引っ越しをされたのだといいます。

その神社は僕の地域では“うじがみさん(氏神様)”と呼ばれて親しまれ、この土地の人々を守ってくれる神様が祀られています。

せっかくなので、うじがみさんに行ってみます。

 

歴史ある立派な社です。年に一度、御神輿をかつぐ地域のお祭りがあります。

そして拝殿の右側から、後ろの方に周ってみます。

おや、おじいさんがいます!

カメラに気付いてか、祠の前の草を取っているようです!

ちゃんと祠(ほこら)の後ろの方の草まで取っていますね!

 

こちら、僕に「直大」という名前を付けてくれた我が祖父でありますw(2019年他界)

地域や我が家の歴史をいつも丁寧に僕に教えてくれます。感謝!

 

そしてこの石でできた家が紛れもなく、場所を移されてうじがみさんの所にやってきた「天神」様の祠なのです。

手書きですが「北川天神」とあります。

同じ敷地に2柱の神様が一緒にいて、逆にさみしくないかもしれませんね。

 

氏神様? 天神様?

氏神(うじがみ)様:もとは血縁関係にある氏族(祖先を同じくする一族)の神様でしたが、次第にその土地に住む人達全員の守護神を指すようになりました。

 

天神(てんじん)様:もとは天候をつかさどる農耕の守護神でしたが、次第に学問の神様としても知られる菅原道真公を指すようになりました。

 

つづく

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