【話ネタ】謎の浮世絵師「写楽」とTSUTAYAにまつわる話

誰でもこちらの浮世絵は一度は目にしたことがあるかと思います。

THE・江戸時代といった感じの絵ですよね!

日本のみならず海外でも高く評価されている人気の絵(版画)です。

このあまりにも有名な浮世絵は「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」という長ったらしくて覚えづらいタイトルの作品で、描いたのは東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく)という人物です。

今日はこの写楽という謎に満ちた人物について、他のエピソードも交えて書いていきたいと思います。

「謎」と聞いただけで、ちょっとそそられますよね^^




写楽の謎について

まず、この浮世絵を描いた「写楽」の何が謎なのか?というところからですが、

実はそもそも、写楽が誰なのかが分かっていません(笑)

東洲斎 写楽というのはあくまでもペンネームに過ぎないのです。

もちろん生没年についても不詳です。

こんなに有名な作品を描いたのに作者の素性が分かっていない。もうおもしろいと思いませんか?

写楽の活動期間がスゴイ!

写楽は江戸時代の後期である寛政6年(1794年)5月に、版元(出版人)である蔦谷 重三郎(つたや じゅうざぶろう)28枚の役者絵を発売したことで華々しいメジャーデビューを遂げました。

しかし翌年1月に、突如として浮世絵の世界から姿を消してしまったのです。

つまり活動期間はわずか10ヶ月ということです(笑)
※寛政6年(1794年)には閏11月があったので、10ヶ月間となります

写楽の描いた作品数がスゴイ!

写楽の活動期間は上に書いた通りわずか10ヶ月間ですが、その間に多くの作品を世に送り出しました。

その数なななんと、145点!

同時期の画家で「美人画」で有名な喜多川歌麿が、140点ほどの作品を10年間かけて発表したのに比べると、かなりのスピード感であることがお分かりいただけると思います。

喜多川歌麿も素晴らしい浮世絵師であることは当然なのですが、写楽がなんというか、、、変なのです(笑)


写楽の作品の特徴「大首絵」

写楽といえば、当時活躍していた歌舞伎役者や遊女「大首絵(おおくびえ)」という技法を用いて描いたことで知られています。

大首絵というのは、もちろんテレビや写真なんて存在していない時代、“役者の演じる表情や遊女の美貌を間近で鑑賞したい”という人々の要求から生まれたものですが、写楽の作品では、極端に表情や姿勢がデフォルメ(誇張表現と簡略化)されています。

「市川鰕蔵の竹村定之進」

「二代目嵐龍蔵の金貸石部金吉」

「中山富三郎の宮城野」

どの登場人物も特徴的でおもしろい顔をしていますね!

リアルを追求しない感じは、まるでマンガのひとコマのようでもあります。

改めて冒頭の「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」という作品を見てみると、少し印象が変わりませんか?

手や体のサイズに比べて、顔が極端に大きく描かれているのが分かります。


蔦屋重三郎という人物

写楽を語る上でとても重要になってくるのが、上の方でもチラッと触れた蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう)という人物の存在です。

蔦重(つたじゅう)とも略され、江戸時代の出版会のリーダー的存在でした。

もしも江戸に蔦屋重三郎がいなければ、浮世絵版画や、洒落本・黄表紙などと呼ばれる大衆小説は全く盛り上がらなかったとさえ言われていますが、果たして彼はどのような人物だったのでしょうか?

蔦重、本屋をつくる

蔦重は、寛延3年(1750年)に江戸の吉原(よしわら)で生まれました。吉原といえば真っ先に思い付くのが遊郭ですよね。今でいうところの新宿歌舞伎町のような所です。(すこし違いますか?笑)

彼の父親はそんな吉原遊郭に勤めていました。

そして蔦重は23歳という若さにして、地元である吉原の敷地内で「耕書堂」という本屋をオープンします。

蔦重、遊郭ガイドブックを売る

主に耕書堂で扱っていたものは、「吉原細見(よしわらさいけん)」という遊郭ガイドブック、「ここの遊郭にはこんな娘がいますよ~♡」というホステス名鑑みたいなものです(笑)

創業当初は、元々あるガイドブックを仕入れて販売する小さな小売業者に過ぎなかったのですが、創業からおよそ2年くらいして、蔦重はあることに気付きます。

これ、自分で作った方が売れるんじゃね・・・?

ということで「吉原細見」の新刊を発売します。

当時、複数の版元からいくつかの「吉原細見」が売られていましたが、吉原に生まれてった蔦屋重三郎のコネクションや情報収集力によって制作されたものは、特に品質が高い!とすぐに評判になりました。地方からやってきた観光客のおみやげとしてもかなり人気があったようです。

「吉原細見」は吉原遊郭の広報誌としての役目があり、多くの遊郭から広告費として制作費が提供されていたので、蔦重は自身の懐を痛めることがほとんどありませんでした。つまり売れれば売れるほどガッポガッポ儲かったのです。

うらやましい限りですねー^^

蔦重、出版業に専念する

蔦重はこうして本格的に出版業に進出していく中で、「吉原細見」が生み出す安定的な収益を、今日の歴史的名作となっている江戸時代の作品の数々を世に送り出すための原資として使いました。

当時の大衆小説絵本であった黄表紙(きびょうし)に目を付けると、多くのお金を投資して出版して流行らせました。黄表紙は今でいうマンガ本の先駆け的な存在だとも言われています。

また、色町での遊び方などを描写した風俗小説である酒落本(しゃれぼん)や、読本(よみほん)という伝奇小説なども次々と出版していきました。

こういう財力と先見の目がある投資家がいないと、ひょっとしたら日本のマンガ文化は育たなかったかもしれないのですから、感慨深いものがありますね・・・

そして同時に江戸庶民の識字率は格段に上がっていきました。

蔦重、財産の半分を没収される

業績も右肩上がりでウハウハの蔦重でしたが、世の中いいことばかりではありません!笑

耕書堂から出版された黄表紙『鸚鵡返文武二道(なんて読むんだ?笑)』のなかで、作者の恋川春町は江戸幕府の政策である「寛政の改革」を痛烈に皮肉ってみせました。

この本は、当時の人口がおよそ100万人の江戸において1万5千部以上も売れたベストセラーになったと言います(現代で例えると150万部相当!)。

 

この動きを幕府やお偉いさんが黙っているわけがありませんよね。

しかし作者の恋川春町は呼び出し&厳重注意を食らいましたが、版元の蔦重は難を逃れました。

 

この後も懲りずにコードギリギリの本を出版し続ける蔦重でしたが、ついに幕府から大きな罰を受けることになります。それは山東京伝という作家の洒落本・黄表紙を出版した後のことです。版元の蔦重に大きな責任があるとして処分の対象となり、財産の半分が没収されてしまったのでした。(財産がいくらあったのかは分かりませんが。笑)

ちなみに作者の山東京伝自身は、手鎖50日という精神的にかなりキツ~い処分を受けました。

蔦重、再起をかけて写楽を売り出す

幕府からの処分を受けても、蔦重は出版をやめることはありませんでした。また、彼のプロデュース力は晩年になっても衰えることがありませんでした。

そして出版業人生の再起をかけて、写楽を売り出していく決心をしたのです。

写楽のデビューと同時に、江戸庶民が見たこともないデフォルメされた大首絵の浮世絵を28枚同時に出版すると、「あの写楽ってやつぁ、何者だ!?」と江戸中で知らない人がいないほど話題になります。

しかしデビューからわずか10ヶ月後、写楽はパッタリと姿を消えてしまったのです。

「謎深い」というのは、いつの時代も魅惑的で、人の話題になります。

そういう意味では、僕自身も時代を超えて、蔦重の巧みなトリックにハメられてしまっているとも言えます(笑)

 

蔦重は、大衆ウケするものを察知するセンスがあり、心理的に人々の心を動かしていました。

「吉原」という毎日多くの人が行き交い、触れ合う環境で育った蔦重は、市場調査(マーケット・リサーチ)の天才だったと言えるでしょう。



蔦屋重三郎とTSUTAYA

僕たちが本を買ったりDVDを借りたりするTSUTAYA(蔦屋書店)ですが、実は蔦屋重三郎と関係していると言われています。

しかし、経営者の先祖が蔦屋重三郎というわけではありません。

 

TSUTAYAを運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社の公式ホームページを見てみましょう。

「TSUTAYA」の名前の由来

「TSUTAYA」の屋号は、以下の2つに由来しています。

1.TSUTAYAの創業者である増田宗昭(現カルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)代表取締役社長兼CEO)の祖父が、事業を営んでいた際の屋号が「蔦屋」であった。

2.江戸時代の地本問屋(じほんといや)「耕書堂」の主人で、写楽を世に送り出したとも言われている蔦屋重三郎にあやかり名付けた。

蔦屋重三郎は、今で言うところの敏腕プロデューサーであり、当時の情報流通のために大きな役割を果たしたとされています。江戸と平成という時の隔たりはありながらも、カルチュア・コンビニエンス・クラブが「情報流通の企画会社」として目指すものに共通点は多いと、私たちは考えています。

【引用】「カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社」公式HPより

とのことです。ただ、この2つ目の由来は、“後付け”とも言われています・・・(笑)

結局、写楽は誰なのか

結局この「東洲斎 写楽」という人物は何者だったのでしょうか?

まさか機械が絵を描いたとは考えづらいですから、当時生きていた「誰か」です。

「誰が写楽か?」という問いはいつの時代も話題になりますが、これも蔦重の想定通りの展開であったことは言うまでもありません。

 

これまで挙がっていた説を書くと、こんなものがあります。

①蔦屋重三郎 本人説
⇒写楽なんて人は存在しなくて、蔦屋重三郎の自作自演なんじゃない?という説(笑)

②有名画家説(葛飾北斎、喜多川歌麿、丸山応挙など)

 

そしてついにはこんな説まで飛び出しました(笑)

③アメリカ人「シャーロック」説
⇒東洲とは「東の洲」つまり米国を意味し、名前の写楽はシャーロックと呼ばれる名前の当て字なのでは?

 

そして今現在、最も有力な説とされているのがこちらです。

④能役者「斎藤十郎兵衛」説

蔦屋重三郎の店も写楽が画題としていた芝居小屋も八丁堀の近隣に位置していた。“東洲斎”という写楽のペンネームも、江戸の東に洲があった土地を意味していると考えれば、八丁堀か築地あたりしか存在しない。さらには“東洲斎”を並び替えると、“さい・とう・じゅう”(斎・藤・十)というアナグラムになるとも推測できる。

【引用】Wikipediaより

「東洲斎」の「とう しゅう さい」を入れ替えて「斎藤十・・・」

・・・奇抜な発想ですね!

 

そして斎藤十郎兵衛説がなぜ最も有力かというと、わざわざ実名を伏せなければならない人物が他にいなかったからとも言われます。

今では信じられませんが、当時、写楽が題材にしていた歌舞伎役者は「河原乞食(かわらこじき)」と呼ばれ卑しい職業とされていたそうです。それに比べ、同じ役者でも能役者は士農工商でいうところの武士の身分でした。

そんな武士の身分である斎藤十郎兵衛が、歌舞伎役者の絵を描く仕事をするのは卑しいこととみなされる可能性がありました。

そもそも武士の身分で、大衆に人気の浮世絵を描くことさえも、褒められるものではなかったそうです。

つまり、身を隠しながら浮世絵を描く必要があったということです。

また、能役者を本業としていたからこそ、たった10か月で絵師を辞めることが出来たとも言われています。

 

ただ、こちらの説も「有力」というだけで決定的なものはないので、やはり写楽は謎に包まれたままなのです。

 

まあこういうのは、謎に包まれていた方がロマンがあって楽しいですけどね!

 

以上です!

今日も最後までお読みいただきありがとうございました^^!

「蔦屋」

著者:谷津矢車
出版社:学研パブリッシング

【日経新聞で紹介、人気急上昇中】

江戸・吉原に生まれ、黄表紙や浮世絵などの版元として次々とヒットを飛ばした蔦屋重三郎。

喜多川歌麿、東洲斎写楽、十返舎一九らを売り出し、アイディアと人脈で江戸の出版界に旋風を巻き起こした異色のプロデューサーの生きざまを描く!

 

 






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