北陸地方の富山県といえば、黒部ダムや高岡大仏、ほたるいかなどが有名です(富山の方、よろしいでしょうか?笑)が、僕が好きな富山の伝統文化の一つは
ズバリ、薬です!!!
「富山のくすり」という言葉はなんとなく耳にしたことがあるかもしれません。
一応断っておきますが、薬といっても危ない薬ではありませんよー。
どうして富山は薬が有名なのか。
Wikipediaの富山の売薬によると、(ちょっとアカデミックですいません)
1639年に加賀藩から分藩した富山藩は多くの家臣や参勤交代、江戸幕府から命じられた委託事業(手伝普請など)、生産性の低い領地といった要因で財政難に苦しめられていた。そこで富山藩は本家の加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために産業を奨励した。その一つに製薬(売薬商法)があった。 17世紀終期、富山藩第2代藩主・前田正甫が薬に興味を抱いて合薬の研究をし、富山では最も有名な合薬富山反魂丹(はんごんたん)が開発された。
ということです。
財政を立て直すために薬に目を付けた、というのがスマートで良いですね!
「反魂丹」の木製看板(広貫堂資料館にて撮影)
反魂丹は小さくて黒い丸薬(開発者は備前岡山藩の藩医、万代常閑)なのですが、富山市内にある老舗池田屋安兵衛商店さんで、製薬風景(再現)の見学をすることが出来ます。
※薬事法の関係で実際の薬ではなく、あくまでも風景の再現とのこと
この反魂丹という薬が有名になったのには、とある事件が関わっているそうです。
それは江戸城腹痛事件というもの。下品なので日本史の教科書には出てきません(笑)
1690年に江戸城で突然腹痛に見舞われた三春藩主の秋田輝季に、その場に居合わせた富山藩主の前田正甫が所持していた反魂丹を服用させたところ、あらびっくり腹痛が回復しちゃったよ!という、だけの話です。
この事件、実は史料的な裏付けはないのですが、この経緯を見たり聞いたりしてびっくり仰天した諸国の大名たちが、「うちの藩にもぜひ薬を売りに来てくれ!」と富山の薬の行商を懇請したことで、富山の薬は一躍有名になったと言われています。
そんなこんなで薬が有名な富山なのですが、この地域では神農(しんのう)という医療(と農耕)の神様の信仰も昔から厚いです。中国由来の神様ですが。
神農の掛け軸(広貫堂資料館にて撮影)
神農の像(広貫堂資料館にて撮影)
⠀
そして富山の薬売業の理念。これがまた素晴らしいんです!!
それは「先用後利(せんようこうり)」という考え方。
どういう意味かというと、
使ってもらうことが優先で、利益は二の次ということです。
この理念に基づき、
医薬品を前もって各家庭に預けて必要な時に使ってもらい、代金は後日支払ってもらうというシステムが生まれました。
牛丼屋で言えば、松屋の会計ではなく、吉野家とかすき家の会計。
後払いシステムは当たり前のようなのですが、よくよく考えてみると病院などで処方してもらう薬って、余らしてしまうことありませんか?
その無駄がなくなるわけでもあり、当時としてもかなり効率的で、画期的なシステムでした。
さらに明治時代以降、薬売りたちは顧客満足度の向上を図るために、お得意さんには必ずお土産を持っていきました。
浮世絵や紙風船などがその一例なのですが、娯楽の少なかった時代で、紙風船に関して言えば子どもまで楽しめる遊び道具ですから、誰もがそのお土産を心待ちにしていたようです。
テレビもない時代なので、浮世絵は新聞のような役割も果たしていました。
⠀
最後にご紹介するのが、富山の薬の特徴的なパッケージデザインです。
レトロで可愛く、見ているだけで面白いですよね♪
しかしこれ、ただ可愛いだけではないんです。
パッケージを手に取った時に、効能が瞬時に判断できるようなデザインになっているんだとか。
言われてみれば、腹痛に効く薬であれば上のようにおなかを押さえていたり、下のようにお腹が特徴的な七福神である布袋さんが描かれていたりしますね。
風邪であれば、“はやく”治るようにジェット機が描かれていたり、
「熊の胆のう」が昔から胃に効くということから、飲みすぎ・食べすぎに使う薬には、熊が描かれていたりします。
今でさえ日本人の識字率は99%ですが、字を読める人が少なかった時代、絵で判断をしてもらうという意味合いもありました。
服用する薬を間違ったら取り返しの付かないことになる場合もありますからね!
トイレのピクトグラムも同じですね(笑)
海外に行って言葉が分からなくても、決して間違えることはありません!
以上、最後までお読みいただきありがとうございました。
あ、そうそう、銭湯の桶によく使われる「ケロリン」は、富山の薬メーカーのひとつである富山めぐみ製薬が製造販売する頭痛薬の広告です。
⠀
コメントを残す