お久しぶりです!
先日まで10日間程日本を留守にして、アモーレ♡(愛)の国、イタリアに行ってきました。
僕はピザとパスタが好きな方なのですが、さすがに10日間昼も夜も毎日口にしていたら、
「もうマジで勘弁してください・・・」ということになってしまいました(笑)
さてさて、今回の記事では、僕の訪れたベネチアというとっても素敵な街の“仮面文化”についてご紹介します。
はじめに:ベネチアについて
まずはベネチアについて少しだけ。
ベネチア(ベネツィア)という名前は、みなさん一度は聞いたことがあるかと思います。
イタリア北東部ヴェネト州の州都で、「ベニス」というのも同じ街のことを言います。
ベネチアはイタリア語で、ベニスは英語なのですが、最近の日本ではベネチアと呼ばれることが多くなりましたね。
場所はコチラ。
イタリアはよく長靴(ブーツ)の形に例えられますが、ベネチアは長靴(ブーツ)の付け根部分、脚でいうとヒザ裏にあたります。
また漫画ワンピースに登場する「ウォーターセブン」という街の舞台にもなっているそうです!
ベネチアは水の都とも呼ばれ街の至るところに運河があり、そこをゴンドラがゆったり通り過ぎていきます。
気持ちよさそうでしょ~?
ゴンドラが運河を進んでいるのを見ているだけで、時間の流れがゆっくりと感じられるので不思議です。
ゴンドリエーレ(ゴンドラ水夫)は船の後方の「左側」に乗り、バランスを取るために船の形は左右非対称になっています。
大きな船が通っても、器用によけられるんですよ!
そしてもう一つ、ベネチアという街には特徴があります。
それは人口密度の高さです。
ところ狭しと並ぶ、部屋、部屋、部屋!!!
この家は、どうやら向かいの建物にヒモを引っ掛けて、洗濯物を干しているようでした。ベランダという概念はここには存在しないのでしょう(笑)
我らが日本の東京も人口密度が高いと言われますが、その中でも特に人口密度が高いと言われる中野区や豊島区と比べても、ベネチア本島の方が密度が高い(高かった?)と言われています。(※今の正確な人口を実際に比較したわけではありません。)
高層ビルはなく、せいぜい4・5階建てが最大と思われるベネチアでは、窓を開ければ隣や向かいの家の人とよく顔を合わせることになります。
「スープの冷めない距離」と表現されることもあるそうですが、だいたい意味は理解できますね(笑)
そして人が多く、生活をしていく上でのプライバシーを保ちづらいこの街に、いつしかある画期的なアイテムが登場します。
それがいわゆる「仮面(ベネチアンマスク)」です。
ベネチアの仮面とカーニバルについて
狭いところに多くの人々が暮らすベネチアでは、素性を隠す道具として、仮面が古くから使われてきました。
もちろんみんながみんな仮面を付けて生活をしていたというわけではありませんが、顔を見られたくない場面などで、付けたい人が付けていたということでしょう。
あー、穴があったら入りたい!と思った瞬間なんかに、サッと仮面をかぶって隠れられるわけですから、ちょっと便利な気もします。
「あー、仮面があったらかぶりたい!」
誰にだってそんな場面が一度や二度、ありますよね(笑)
ベネチア・カーニバル
ベネチアと聞いた時、「水の都」を思い浮かべる方もいれば、「カーニバル」を思い浮かべる方もいるのではないでしょうか。
なにやら薄気味悪い仮面を被った人々でにぎわうベネチア・カーニバルですが、今や毎年なんと約300万人が訪れるイタリアきっての一大イベントとなっています!
キリスト教のイースター(復活祭)の日程によってカーニバル開催期間は毎年異なりますが、1月末~3月のうちの約2週間で行われます。
ちなみに次回のベネチア・カーニバルに日程は、2019年2月16日(土)~3月5日(火)となっています。
旅行のご予約はお早めにされることをおすすめします!!
このカーニバルがベネチアの仮面を語る上で欠かせません。
というより、カーニバルの仮面がベネチアを世界的に有名なものにしたと言っても過言ではありません。
ただ、最初からカーニバルで仮面が被られていたわけではないのです。
ベネチア・カーニバルの歴史
ベネチア・カーニバルは、1162年にアクイレイアとの抗争にベネチア共和国が勝利したことがきっかけで始まったと言われています。
日本でいう戦国時代のようなイメージでしょうか。敵勢力に自分の国が勝利したということです。
嬉しくてたまらなくなったベネチア人たちは、広場などに集まって、飲み食いしながら踊り狂いました。
このように当初はダンスをして飲み食いするだけのカーニバルでしたが、その後ベネチアが政治的にも地中海地域で最大の力を持つようになると、カーニバルもどんどん盛大に開催されるようになっていきました。
そして15~16世紀(1401~1600年頃)になると、この地域特有の「仮面をかぶる」という習慣がミックスされ始めて、次第にカーニバルに仮面舞踏会の要素が定着していったのだそうです。
しかし18世紀頃にベネチア経済が衰退した結果、ベネチア・カーニバルも徐々に廃れていき、ベネチア共和国が滅びると同時にカーニバルは中止されてしまいました。
それから長い時を経て、1979年にイタリア政府がベネチアの歴史と文化を復活させるため、伝統的な祭典だったベネチア・カーニバルを再開したことで、再び注目を浴びることになったのです。
案外最近の話だったんですね!
仮面ショップ
ベネチアの街を歩いていると、至るところで仮面ショップを目にします。
夜の仮面ショップは何と言っていいか、とても不気味です・・・(笑)
仮面の値段はピンキリで、屋台の観光客相手の胡散臭いお店で買えば、10ユーロ(1,350円くらい)程で手に入れられます。
上の写真のようにしっかりとしたお店に入ると、目元だけを覆ういわゆるSMクラブタイプの仮面でも、倍の20ユーロくらいはしていました。
僕は買っていません。
「うちのはハンドメイドで、紙と糊(のり)を混ぜた柔らかい素材だから、落としてもお土産で持ち帰っても簡単には割れやしないよ~」と言って店主のおばさんが触らせてくれました。
変わった仮面とベネチアの負の歴史
仮面ショップには、一つ変わった種類のマスクが売られていました。
それがコチラ。
これが何なのか分かりますか?
僕は最初に見た時は一体何なのか分からずただ不気味な仮面だなーと思っていたのですが、指を差しておばさんに聞いてみると、
「ペスト、ペスト」と言ってきます。
ん、ペスト???
あとで調べてみると、興味深い歴史があることが分かりました。
このクチバシのある仮面は何なのかというと、昔のお医者さんが付けていたマスクなのだそうです。
仮面の元になった実物がコチラ。(※ちょっとオカルトチックですがご容赦ください。笑)
中世ヨーロッパでは、当時では原因不明の病、“ペスト”が何度も大流行しました。
ここベネチアもその例外ではありません。
ヨーロッパと東方(中近東やアジア)の国々の重要な貿易の拠点であり様々な物資がもたらされ、人口密度が高く、さらに大小の運河があるべネチアは、環境的に外からウイルスが街に入り込むとすぐに蔓延してしまうのでした。
看病をしていたお医者さんでさえペストの病原菌に感染して、次々に命を落としていきました。
なんと9世紀頃から15世紀頃までの約600年間に63回もペストが流行り、1348年の流行時は10万人もの人が亡くなったという恐ろしい記録も残っています。
そして16世紀になり、Charles de Lorme(シャルル・ド・ローム)というフランス人医師がこのペスト患者の検診専用の衣装を考え出すと、それがベネチアにも伝わりました。
マスクのクチバシ部分には薬草(ハーブ)などが詰められ、マントや手袋にはワックス(蝋)が塗られていました。
そして長いステッキで布団をめくり、ペスト患者に直接触れることがないように服を上げて検診していたそうです。
今では考えられない光景ですね・・・
いずれにしても、カーニバルとは元々何の関係もないペストのマスクが、今や仮面ショップで売られカーニバルを盛り上げているのですから、イタリア人のユーモアにクスッときます(笑)
ちなみに17世紀に建てられたこちらのサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会は、ペスト大流行などの不安定な情勢が元となり、聖母マリアに鎮静化を祈願するために建てられたといいます。サルーテというのは「健康」という意味のイタリア語です。
場所はコチラ。
科学も医学も進歩していない時代、病気や災いが降りかかると、誰もが藁にもすがる思いだっただろうことは言うまでもありません。
日本の歴史もそうですが、不安定な時代と信仰は切っても切れない関係なんですね。
キリスト教信仰の片鱗に触れるのも、ベネチア歩きの醍醐味の一つだと僕は思います。
まとめ
ベネチア・カーニバルの代名詞とも言える「仮面」は、様々な歴史の結果今の姿に発展したということをお分かりいただけたと思います。
まだ身分や階級の違いがハッキリしていた時代に、平民も貴族も平等に楽しむことができるようにと、カーニバルの期間はお互いの素性を隠す仮面が付けられるようになっていきました。
時には総督までもが仮面をつけて、民衆に紛れ込み自分に関連のある噂話に耳を傾けていたそうです。
そして仮面はお互いの素性を隠すためだけでなく、日頃抑えられていた欲望を解放させる役割をも果たし、ベネチア人たちは自由を得て、ようやく快楽に酔いしれることができたのです。
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